体験談が掲載された『身障くわな』を手にする加藤瀧子さん
令和2年12月1日発行の桑名市身体障害者福祉協会の機関紙『身障くわな』第537号の2面に、長島デイサービスセンターほほえみのご利用者加藤瀧子さんの戦争体験談が掲載されました。
加藤さんは、昭和9年(1934)に桑名郡城南村小泉(現在の桑名市小泉)に生まれ、現在は桑名市長島町内にお住まいです。
戦時中の桑名での生活の様子、桑名空襲の体験は今では貴重なもので、当時を知る方はとても少なくなっています。
そこで、ご本人様の許可を得て、貴重な体験談を掲載させていただきます。
なお、桑名市社会福祉協議会では、桑名市遺族会の事務局も担当しています。
昭和9年生まれ。
当時の住所:桑名郡城南村小泉。
家族構成:祖父、祖母、父、母、長男(14歳、農業研修所)、長女(12歳、市立高等女学校)、次女(自分、10歳)、三女(6歳)、次男(8歳)、三男(5歳)、四男(3歳)
昭和16年4月、国民学校に入学。この年12月に大東亜戦争がはじまりました。戦争が終わったのは昭和20年8月15日、4年生のときでした。学校では1年で入学した時から勉強どころではなく、バケツリレー、竹やりの練習でした。サイレンが一つ鳴ったら警戒警報、二つ以上鳴ったら空襲警報でした。いつもサイレンの音に怯えていました。そしてサイレンの音を気にかけながら外でサツマイモや、豆を植えたりしていました。おやつは、いつもあられやかき餅でしたが、農家だからだったのかもしれませんが・・・。
男の子はめんこ、女の子はお手玉で遊びました。学校では、教室へは入らず、奉安殿で最敬礼をして、教育勅語の練習や暗記をしました(今でも覚えています)。歴代の天皇の名も暗記して、できないと立たされたりして、何のために学校に行っていたのかわからないくらいでした。城南小、中学校も桑名の空襲でまる焼けでした。お寺や集会所、漁協や農協の事務所で勉強しました。教科書はアメリカにとって悪いところは全部墨で塗って真っ黒にして何を勉強したのでしょう。5年生の時は代用教員で、女学校を卒業され、私たちの先生になりました。カバンはなく風呂敷でした。トイレは屋外で紙は新聞紙を小さく切って使いました。自転車もなく、履物は靴の配給が1年に2~3回、それもクラスで3~4足でしたからくじ引きでした。家で藁草履を作ってもらい、走るのは裸足でした。本当にみじめな生活でした。食べ物は、ジャガイモを細かく切ってご飯を雑炊にして食べました。また麦をコメの何倍も蒸して食べましたから、コメが多いのか麦が多いのか分かりませんでした。それも弁当に持ってこられない子供もいて、弁当の時間は「家に帰って食べる」といって帰りましたが、子供は家で何を食べたんでしょう。
〇空襲のこと
私の家は大きな家でしたが、家族も多く防空壕はありませんでした。庭にクロガネモチの大木がありました。空襲警報がしょっちゅう鳴るようになると、この大木の下に布団を持ち出して寝ていました。7月の桑名の空襲の時もここで寝ていました。空襲と共に桑名の空は赤く燃えていました。逃げることもなく桑名の空を眺めていました。B29が空一杯になって名古屋方面に飛んでいきました。私は怖くて坪ノ内(※1)でじっとしていました。和泉の空襲で殆どの家は焼け、友達がうちに逃げてきました。
空襲から1週間後の爆弾攻撃の時は、よく覚えていませんが、隣村の小泉の同級生の家に爆弾が落ちて同級生が一人亡くなりました。牛も死んでいました。この牛の肉を近所の人に配られたので、おいしくいただきました(※2)。爆弾あとを見に行ったら、大きな穴があき青々とした池になっていました。
中学は、私達から新制中学になりましたが、校舎もなく机もなく、ないないずくしでした。机はミカン箱の上に板を張り付けて、みんなが1ヶずつ持って学校へ行きました。今のような良い道じゃなく田んぼの畦道でしたので、担いでも行けましたが、今ならとても持っていけません。
75年過ぎて思うことは、もう二度と戦争はやってはいけません。でも良いことは一つだけありました。名古屋の空襲で焼け出されて、子供だけおばさんの家に疎開して来ていた女の子とはずっと仲良くしていて、同窓会とか、年賀状の付き合いをまだ、ついこの間まで続けてきました。80歳を過ぎて訃報の知らせを受けました。寂しくなりました。
桑名市身体障害者福祉協会 『身障くわな』第537号(令和2年12月1日発行)より
・文中の表現は同紙の記事をそのまま引用しています。
・※1 坪ノ内・・・庭
・※2 戦時中は牛肉が貴重でほとんど手に入らなかったことから、牛肉を食べたのは数年ぶりだったとのことです。
社会福祉法人 桑名市社会福祉協議会 長島支所 長島通所係
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